#映画監督 大林宜彦~現在の日本映画製作システムの礎を築いた!(後編)

20世紀ももう終わろうとしているころ、わたしは初めて憧れの大林監督とお会いすることができました。「HOUSEハウス」を映画館で観てからすでに20年が経ち、ある地方の国家行事の式典演出家を引き受けてもらおうとズケズケ乗り込んで行ったのでした。初対面で緊張しながら約30分プレゼンさせてもらいました。大林監督は終始やさしい微笑みで聞いてくれて、最後に「引き受けましょう。」と、お金のことなど一切聞かず握手してくれたことを今でも鮮明に覚えています。それから約2年間、式典本番まで大林監督の助手のひとりとして東奔西走、七転八倒の日々を過ごしました。その後の20年も大林作品の撮影現場や配給にときどき参加させてもらい今に至っています。この20年間を話し始めると長くなるので控えさせていただきますが、大林監督という人は、よく食べ、よく飲み、よく話し、よく動く、とにかくパワフルな人です。今でもガンと闘いながら映画を作り続けています。もう脱帽するしかありません。そんな大林監督とのエピソードをひとつだけ紹介します。
それはある映画の撮影現場でのエピソードです。セットチェンジの撮影の合間、大林監督がわたしにこんな質問をしてきました。
「映画の現場はみんなプロフェッショナルの集まりだけど、ひとりだけ素人でもやれるポジションがあるんだ。どのポジションだと思う?」
わたしが悩んでいると・・・・・・
「それはね・・・監督なんだよ。監督がこうやりたいと言うとそれぞれのプロが全部やってくれるんだ。監督はクチだけあればいいんだよ。だからだれでも監督はやれるんだよ。」
なぜ大林監督が当時こんな話をわたしにしたかと言うと、わたし自身が映画監督になることを諦めたという話を以前したからなのでした。まだ諦めるなということなのかどうか?は定かではありませんが、いつもわたしはそのことを肝に銘じています。時代が変わり、映画技術も変わり、確かにだれでも映画が作れる時代になっています。生きている限り、まだチャンスがあるかも知れません。
(まとめ)
大林宜彦監督を知らない人に、わたしがいつも例えていうのが大リーグに行って大成功した野茂茂雄です。野茂は未だ日本人としてだれも成功していない米国大リーグに挑戦。ほとんどの野球評論家は「野茂は大リーグで通用しないから行くべきではない」と言っていましたが、結果は輝かしく、その独特なフォームから米国で野茂トルネードブームを起こしました。これにより日本人大リーガーが続々誕生し、イチローの偉業につながりました。日本の映画界をみてみると、黒沢明、小津安二郎の後の斜陽時代、大林宜彦という映画監督が救世主として彗星のごとく現れ、次々と新しいスタイルで製作・配給し大成功をおさめたことで、岩井俊二、北野武など日本のニューウェーブが巻き起こったのです。
「先駆者」という意味で共通しているとわたしは思っています。映画監督:大林宜彦の足跡は、日本映画にとって実に大きな偉業といえると思います。