#映画監督 大林宜彦~現在の日本映画製作システムの礎を築いた!(前編)


大林宜彦監督

わたしが大林監督と初めて出会ったのは、今から40年ほど前、高校生のときでした。と言っても、ホントに会ったわけではなく、映画館で観た「HOUSEハウス」との出会いでした。アイドル少女満載のコメディー・ホラーともいうジャンルです。当時の日本の映画業界は斜陽の一途で、当時としてはあり得ない、撮影所で下積み経験のないTVCM監督の大抜擢なのでした。作品の評価は、古い体質の映画評論家たちに「おもちゃ箱」みたいと散々でしたが、映画を軸とした宣伝イベントやタイアップ、メディアミックス、無名のアイドルを超人気アイドルに育てる仕掛けなど、そのプロデュースは画期的なものでした。今では当たり前のようになっているこれらのプロモーションは、全部大林監督が先駆者なのです。後に「時をかける少女」の原田知世、「ふたり」の石田ゆり子が大女優になるきっかけを作ったのも大林監督であるというのも納得です。

大林監督との2度目の出会い(正確には2度目の映画)は、わたしが大学生のとき、「転校生」でした。今までこんなに抱腹絶倒させてくれた日本映画はありませんでした。「さびしんぼう」「時をかける少女」とファンの間で尾道(大林監督の出身地である広島県尾道市で撮影された)3部作を呼ばれる傑作を完成させ、尾道は全国一有名な映画の街となりました。最近のアニメでいう、ファンが舞台となった場所を訪れる「聖地巡礼」、地方で映画撮影協力して観光推進をする「フィルムコミッション」の先駆けも大林監督のなせる業なのでした。

その後「異人たちの夏」に出会った頃は、すでにわたしは大林マジックの虜になっていました。将来映画監督になりたいと8ミリ映画を仲間と撮りまくっていたわたしは、当時、斜陽産業で助監督を募集していなかった映画業界を変えるかも知れない大林監督の活躍に大興奮したものでした。このとき、映画作品ではなく、大林監督ご本人と出会い一緒に仕事をさせていただくなど夢にも思ってはいませんでした。

「HOUSEハウス」を観てから20年後、映像プロダクション、広告代理店、海外留学、映画会社など流転を繰り返し(映画監督になるべく修行として)、当時フリーランスのプロデューサーになったばかりの30代後半のわたしに舞い込んできた案件は、ある地方で開催される国家行事の式典演出家の依頼でした。条件は、「過去に国家行事の式典演出経験があること。地方に根差し、地方に理解があること。」の2点でした。ピンときたわたしは、さっそく面識もなく紹介者もいない中、ダメもとで大林監督に演出を依頼すべくアプローチすることに決めました。なぜなら大林監督は広島国体の演出経験があり、尾道という地方に根差した活動をしていたからです。「適任者はこの人しかいない!」そう思ったわたしが大林監督の事務所に飛び込むのにそう時間はかかりませんでした。電話をし企画書を送ってから1ケ月後、そのときは実現しました。

大林監督演出の2000年国家行事 準備(中央:大林恭子プロデューサー)